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異文化理解とは心の余裕を持つこと

グローバライズしている現代において異文化を理解する能力というのはとても大切だと言われています。

大学にも「異文化コミュニケーション」なる授業があったし、僕がゼミで履修していた「社会言語学」も文化的な差異がどう言語に影響するか、あるいは言語がどう社会に影響するかみたいなことをテーマにしていました。

カナダとフランスでの超異文化生活を経験している身としては、異文化については少しは理解のある人間だと自負しているつもりでしたが、先日生徒さんとお話をしていて「果たしてそうだろうか」と自問せずにはいられませんでした。



そもそも「異文化」とはなにか。

文化の違い、ということになりますが、これはなにも日本とカナダとか、日本と韓国といったような国をまたぐスケールの話だけにとどまりません。

札幌と京都、篠路と円山(篠路(しのろ)というのは僕の生まれ故郷です)、自分の家とあいつの家、自分と親、自分と他人、、、つまるところ、自分以外はみんな異文化なんですよね。

このあいだ予備校の生徒に「先生は変人だ」と言われましたが、自分以外はみんな変人なのです。自分が基準になって生きているのだから。

生きるということは異文化を持つ人・集団・社会・国とコミュニケーションをとっていくということ。そんな異文化コミュニケーションにおいて、必ず起きてしまうのが摩擦です。

意見の食い違いはどうしても発生しますが、それを感情的に怒鳴りつけたりとか暴力で鎮めようとするのは何の解決にもならない。(でもまあ、そうやって感情的になる人の気持ちもわかります。)



この文化摩擦を円滑にしてお互いが気持ちよく生きていくことができればな、というのが理想ですが実際はそんなうまいこといかないものです。つい感情的になってしまったり、「なんでこの人はこうなのだろう、意味がわからない」と思ったり思われたり、、、

そんなときは、相手との違いを楽しむという意識が大切だなと感じます。「意味がわからない」ことに対して嫌悪感を抱くのではなく、「そういう捉え方もあるのか」とか「なぜそういう考えに行き着くのだろうか、おもしろ」とある種の余裕を持つというか。

そうすることで、議論がより建設的になります。

結局感情的になってしまう原因は自分に余裕がないから。

人はそれぞれまったく異なる世界観、価値観があるという事実をありのままに受け止めたうえで、どんな価値観や考え方があるのか、どういう経緯でそこに至るのか、というのをいろんなカタチで吸収することが、自分に余裕を持つ上では欠かせないなと感じます。

それはもしかしたら先人たちの知恵や考えを本から学び取ることかもしれないし、自分とは全然違う生き方をしている人と話すことかもしれない。

今自分たちの身の回りにいるあらゆる人でさえ自分と全然違うのだから、海外での出会いはもっともっと刺激的な価値観をもたらしてくれます。

日本を飛び出して海外に留学することの意義のひとつは、まさに肌と肌で様々な「違い」を感じとり、そうして得た経験を心の余裕に還元し、人として成長していくことにあるといえます。

Naoki